先日出かけたお遍路さん。
少しだけ観光もしてきたのですが、あるお方にお会いすることが出来ました。

アメリカ
そう、アメリカ。
イッサンの憧れの国。
初めてその地に降り立ったのが2002年6月。
単身ニューヨークへ。
イッサンが渡米していた時の記事がこちら↓
アメリカの文化に触れながら、スケートボードしまくりの3か月間は、今のイッサンを形成している大きなピースの一つ。
あの頃のアメリカは物価も安く、買い物しまくっていました。
20年経った今のアメリカの物価はとんでもなく高騰。
政府のせいで30年間も賃金が上がっていない、むしろ中央値が下がっている日本の中流階級であるイッサンには行くことが出来ません(^^;
アメリカの何が好きって、そりゃ~カルチャーでしすよ(^^)
音楽、スポーツ、芸術、車、アメリカ発祥のカルチャーはカッコイイの一言。
敗戦後、今も尚アメリカの植民地である日本としては屈辱でしかありませんが、悔しいながら、アメリカのカルチャーはカッコイイ!そこは否定しない!!
そんな憧れの国アメリカ。
その地に初めて降り立った日本人のことをご存知ですか?

あのお方
初めてアメリカの地に降り立った日本人。
その方の名は、中浜万次郎さん。
通称、ジョン万次郎です!
日本人で初めてアメリカに渡ったなんて、全く血の繋がりはありませんが、なぜかアメリカンカルチャー好きなイッサンのルーツを感じます!勝手に(笑)
もちろん記念にツーショット写真を撮らせて頂きました。

デカすぎるぜ!万次郎さん!!
では、そのジョン万次郎さんがどの様に渡米したのか。
それにについては、ジョン万次郎さんの銅像の側面い書いてあった文章で説明します。
中浜万次郎(1827-1898)
中浜万次郎は、鎖国から開田にゆらぐ激動期の日本歴史の影で大きな役割を果し、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。
万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれた。14歳の時出中嵐にあい遥か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、半年ののち、運よく通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。
ウイリアム・ホイットフィールド船長は、万次郎少年の人柄を深く愛して本国につれ帰り3年間正規の学校教育をさすけた。
万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第一号となった。彼は10年におよぶ国外生活中、ジョンマンと呼ばれ
英語、航海術、測量術、捕鯨術などを習得し、二度に亘って七つの海を周航した。しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこに残して来た母親を忘れがたく、意を決して鎖国下の日本に帰って来た。
この時、1851年2月、かの黒船の来航に先だつこと2年であった。このような時機も幸いして彼は罪にとわれなかったばかりか苗字帯刀を許され幕府の直参に取り立てられた。
これより中浜万次郎は、外国事情の講話やアメリカ航海術書とか、公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日をおくることになった。洋式船の操術や捕鯨にも長じていたので、実施の指導にもあたった。日本人による初の太平洋横断、感臨丸の成功の影には彼のすぐれた航海術が大きな力となっていた。帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰った。また、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だと言われている。
明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。44歳の時、少し健康をそこねて公的な活動からしり
ぞき数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。
これがジョン万次郎さんのサクセスストーリーです。
偶然ではありますが、その後の半生を見ると、これは必然ではなかったのかと思えますよね。
日本の発展に大きく貢献されたジョン万次郎さん。
初めてアメリカに渡った日本人、偉大なり!

〆
この様に、人はいつどうなるか分からない。
悪かったと思えたことが、後に好転して良くなることも大いにある。
まさに、「禍を転じて福と為す」です。
今回のお遍路さんで、イッサンはこの様なお願いもしました。
「どうか世の為、人のために役立てるよう、大きく成長させて下さい」
人間として生まれて来たからには、社会や人の役に立ってこそ。
ジョン万次郎さんの様に、自分の経験を活かし、人の役に立てるよう、励みたいと思います。
皆さんも足摺岬に行った際は、是非ジョン万次郎さんに追ってきてくださいね(^^)
本日はこの辺で。

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